人生最大のアクシデント

北海道じゃありません。富士山麓でのワンショット。
ヤマハ マジェスティ250

平成10年7月7日、中川Aは嫁はんとともにバイクにて(上のやつに二人乗り)北海道へと旅に出ました。(僕にとっては二回目の北海道バイク旅です)
バイクに乗り出して10年。こんな経験するのは多分これが最初で最後だと思います。どれだけ安全運転に気をつけていても防げない事故ってものもあります。

今回は「笑い」取れません。すんません。


7月7日 PM7:00、小雨の降る中、浦和を出発。
      PM11:30、「フェリーさんふらわあ さつま」で東京・有明を出港。
7月8日 船中、ぶらぶら過ごす。周りは霧で何も見えない。
7月9日 AM5:30、苫小牧到着。霧の中、富良野を目指す。
7月10日 富良野・・・夜半から降り出した雨がずっと降り続き、テントから出られず。
       PM2:00ようやく雨が上がったので美瑛・旭川へ行く。
7月11日 今日はテント泊をやめ、帯広でホテル泊。
7月12日 帯広から富良野に戻る。
7月13日 富良野を撤退することにした。苫前夕日ヶ丘オートキャンプ場に到着。
7月14日 午前中からノシャップ岬へ向かった。その後、宗谷岬へ。また苫前Cに戻る。
7月15日 北海道を左から右へ横断して紋別のホテルに泊まるつもりだった。

昼前にキャンプ場を出発し、その一時間後に事故は起こった・・・

この図の左下白星☆の地点が事故現場(霧立峠)です。
7月15日 AM11:15苫前から紋別へ抜けようと国道239号線を走っていた。雲もあまり無く、非常に良い天気だった。国道239号線(霧立国道)は交通量はほとんど無かったが、くねくねしたカーブが多い道でバイクのスピードもかなり遅くなっていった。しかしその日はホテル泊するつもりだったし、夕方に紋別に到着すれば良かったので急いで走る必要は無かった。・・・と、ここで僕の記憶は無くなっていた。

次に気がついたのは一週間後。集中治療室(ICU)の天井が見えていた・・・

朝に撮ったこの二枚の写真は事故当時の服装・バイクの装備を写し出しています。もう少しで僕の生前最後の写真になってしまうところでした。


















事故状況(加害者当時19歳)相手車はTOYOTAランドクルーザー。CDを取り替えようと、よそ見をしていた間に反対車線に入ってしまった。それに気づき、戻ろうとしたがカーブに差し掛かったこともあって、戻りきれずに対向二輪車(僕)に正面衝突した。100:0 で相手車の責任となった。

僕自身、事故が起こるしばらく前からの記憶を失っているのですが人からの話や現場の状況から話をすると当たった瞬間後ろに乗っていた嫁はんは上に飛ばされ相手車のフロントガラスに当たった後、車を飛び越して道路に叩きつけられたそうです。(左肩脱臼骨折・全身打撲)
僕はそのままバイクもろとも車に体当たりし、7・8メートル跳ね返されて、バイクの下敷きになっている状態で止まったそうです。(脳挫傷3箇所・外傷性クモ膜下出血・頚部捻挫・右腕骨折・全身打撲)
その時顎の裏の部分が5cmほど真横に裂け、血がかなり出たらしく大きな血だまりが地面に残っていました。(事情聴収の時に事故直後の写真を見て。)

その後現場にたまたま通りかかった数人の人たちに助けられました。

そん時のヘルメット

中から血が滴った。腐った血痕が残る。

血の付いたグローブ

防寒のためレインコートを着ていた。
背中の部分に残る血の跡。

現場検証。指を指しているところで正面衝突した。

留萌市立総合病院に運ばれました。
今現在は建て替えて、この場所にはありません。

7月15日からまる一週間、僕は酸素マスクを口にくわえ、心電図のコード、点滴のチューブを何本も体につなげたまま意識を失っていた。死の危険から脱し、気がついた時見えたものは見たことも無い天井だった。

「あれ・・・?俺、バイクに乗ってたはずやのに・・・ここ、・・・どこや?」最初に思ったことはそんなことだった。何度か目を覚ましたり気を失ったりしているうちに看護婦・両親・嫁はんの姿が見えた。「・・・ここ、病院か。ということは俺、事故を起こしたんか・・・でもそんな記憶は無いしな・・・おかしいな」

脳にダメージをかなりくらっているので、障害が残るだろうと医者は言っていたそうだ。確かに事故後、歩けずに車椅子、目も遠くが見えない、耳もよく聞こえない、匂いもよくわからない、右腕は麻痺状態、半月はほとんど記憶がなく8月に入ってからも10日間は夢遊病みたいな状態で幻覚ばかり見ていたけど、奇跡的に元通りの状態に戻れたようだ。

点滴のチューブに血液が逆流!

最初、車椅子生活だったが次第に立ち上がれるように。8月に入って、T野村が見舞いに来てくれた。僕は外出許可を取ってキャンプに行くつもりでいたけど、うちのおかんに「あんた!そんなん出来るわけないやろ!」と止められた。(笑)
T野村には感謝してます。あの時見舞いに来てくれたんはT野村と旭川の友人だけやったもんな。

毎日見る風景

病室から

毎日何度も救急車で急患が運ばれてきます。それを無感動な目で見ているしか出来ない僕。ホッとした様子で救急室から出てくる人・・・出て来た途端に地面に突っ伏して泣く家族。
・・・すでに死んでたろうか、それともここで死んだんだろうか・・・哀れみの感情さえ満足には湧いてこない。自分もちょっと前はあんなだったんだ。患者間の感情は救急病院という生と死の狭間でいればすぐにそうなってしまいます。

でもそこで必死に患者を助けようとする医者・看護婦・救急隊員達がいる。その姿を見てるうち何かが自分の中で変わりました。「復帰出来たら、人間社会のために何かがしたい・・・」 それが何かはまだ言いません。だって今は満足に実行出来てはいないから。

その時はまだ病室から「今日も一日が終わったか・・・」と夕焼けを眺める生活・・・

2ヶ月でリハビリを待たずに抜糸のみして退院。早くこの病院から離れたかったから。なぜなら、9月に入ってから寒くてしょうがないんだよ。僕が夜に寒くて布団に包まってたら、他の北海道在住の患者が、「いやー、暑いな!窓開けるよ!」と言って窓全開!「おまえら!やめれー!!」と心の中で言ったものの聞き入れられず。

・・・恐るべし、北海道民!!!

浦和に帰ってから半年間、東京女子医大にリハビリで通院。なんとか右腕は復活しました。でも本当はそれからが苦しかった。
PTSD(外傷性ストレス障害)になってしまったようで1年間引きこもりました。その時はそうだと気付かなかったし、人からあらぬ中傷を受けたりして、これからどうやって生きていけばいいのかわからなくなりました。その間T野村とあちこちにキャンプに行って回復に努めました。

・・・そして野球も始め、仕事にも復帰して今に至ります。


こんな綺麗な風景を見ていたことも久方の夢・・・事故を起こせば全て台無しです。でもきっといつか、途中で途切れたあの旅を最後まで終わらせるために北海道に行くでしょう。それまでは大事に取っておきます。

この事故は北海道の新聞にも掲載されたようです。帰ってからその新聞を手に入れようとしましたが、色々めんどくさそうなので途中であきらめてしまいました。

・・・事故を起こして精神的に苦しんでる人にはその気持ちをわかってくれる誰かが必要です。その時はいつでも誰でも僕に連絡ください。
以前、北海道で僕よりひどい事故で障害受けた人からメールもらったけど、あの人今ごろどうしてるのかな・・・



その後

今年(平成15年)の10月に中川Aは函館を旅行しました。もちろん観光が主な目的なんだけど、しておきたいことがもう一つ・・・そうです、図書館に行って事故の記事を探すこと。なんとか時間を割いて図書館に行って探しました。そして見つけました・・・

市立函館図書館
北海道で一番最初に作られた。

さすがに明治時代を彷彿とさせるね。

郷土資料係。ここに新聞ファイルは
納められている。

北海道新聞 平成10年7月16日朝刊

この後、うちの親から聞いたところによると、テレビでも報道されたそうです。でもそれはさすがに手に入れようが無いな・・・残念。(笑)